こころ支援研究所からの*笑顔ブログ*

コミュニケーションの基盤

私たちは言葉のやりとりをコミュニケーションの中心だと考えがちだ。
しかし、言語的コミュニケーションは、身体的コミュニケーションを基盤にしていることを忘れてはならない。

人間は言葉を得ることによって高度な情報交換が可能になった。
しかし、その一方で身体的コミュニケーションの力が衰退する条件をつくってしまった。

長崎県佐世保市での小学6年生による同級生殺害事件は身体的コミュニケーション能力の衰退を象徴するような事件であった。加害者の児童はインターネットをしたり、小説を書いたりできるほどの言語的コミュニケーション能力は持っていた。しかし、身体的コミュニケーション能力は衰退していたものと考えられる。

言葉によって自尊心を傷つけられたことから、いきなり刃物による報復に走ってしまった。
本来なら、子供らしく、「あっかんべー」「イーッだ」とか、つねったり、ひっかいたりし合うのが自然だと思う。それができなかったのは、身体的コミュニケーションの大本にある、身体と身体とが触れ合うコミュニケーションが欠如していたのではないだろうか。

急速にインターネットが普及する中、コミュニケーションを円滑にするためには、身体的コミュニケーションの役割は益々重要になっていくと思う。

コミュニケーションを円滑にするための、身体に関する基本原則は4つある。
目を見る、微笑む、うなずく、そして相槌を打つ。
話しをするとき、4つを適当に織り交ぜて使うと、会話の雰囲気はかなり良くなると思う。
因みに、前者の3つは、傾聴に必要な3つのパスポートと言われている。

では、今日から4日間基本原則について考えていきたいと思います。

基本原則その1・目を見る

目を見ると言うのは一見簡単そうだが意外と難しい。
見つめすぎると気持ちが伝わりすぎて恥ずかしい。
逆に、見つめないと気持ちが伝わらない。

人は目を見られることによって、心理的に大切に扱われていると感じるらしい。
しかし、目をず~と見られていると疲れる。たまに顔の何処かに視線を移し、また目に戻すというほうがいいと思う。

目と目が合ったときに、人と人との間に線がつながる。
その線の上に言葉を乗せていくと言葉は届きやすいのではないだろうか。

バスケットやサッカー、そして車の運転をしているときは、アイコンタクトの重要性がよく分かる。
目と目を合わせ互いに心の中で「よしっ」と確認してからパスを送る。すると、受け手も構えができているので、スムーズにプレーができる。

車を運転しているときも同様で、アイコンタクトによって道を譲り合っている。
アイコンタクトは相手の存在を認めるというサインなのだ。
サインを出すことによって、コミュニケーションをより円滑にしている。

「目は口ほどに物を言う」という慣用句がある。
「情をこめた目つきは、口で話す以上に強く相手の心を捉える」という意味である。

目の威力は本当にすごい。
その、威力を存分に発揮して、コミュニケーションを豊かなものにしようではありませんか!
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# by cocoroshien | 2008-03-11 01:40

竜馬がゆく

柄にもなく本を読んで涙を流してしまった。

「人の一生というのはたかが50年そこそこである。
いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみとり、
いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、
その目的への道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だからこれを計算に入れてはいけない」

「世に生を得るは 事を成すにある」
                         司馬遼太郎 『竜馬がゆく』 より抜粋

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竜馬がゆくを読むのは2回目である。
20代の頃に一度読んだ。

あの頃に読んだ竜馬像はおぼろげだった。
でも、今回ははっきりとつかむことができた。

元来、竜馬は掴みどころのない人間である。
だから若いときには掴めなかったのだろう。

竜馬が暗殺されたのは33歳のとき。
彼が本格的に動き出し、勝海舟の弟子になったときが28歳である。

信じられないことだが、僅か5年間であれだけの仕事をしたのである。
ただ、他の志士達も短命に終わり、歴史に名を残している。

明治維新を全力で駆け抜けていった彼ら!
そのエネルギーは凄まじいものを感じた。

そんな彼らに思いをはせて読んでいたら、不覚にも涙が落ちたのです。
古い考えかも知れないが、とても共感しました。

あの、明治維新を成し遂げた日本人はどこに行ったのでしょうね。
何処かで、遊びほうけているならいいのですけど。

まさか、眠りこけていないでしょうね。
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# by cocoroshien | 2008-03-10 00:19

黄砂

2年前の3月今年と同じように黄砂が舞っていた。
それを私は病室の窓から眺めた。

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入院して1ヶ月病院生活にも慣れてきていた。
慣れるまでは本も落ち着いて読めなっかた。

仕事をしないことへの罪悪感と、取り残されるのではという焦燥感に駆られ、
精神的に安定しなかったのである。

慣れてきたら落ち着いて本も読めるようになった。
そんな時、手に取ったのが、ユン チアンの『マオ』であった。

副題に『誰も知らなかった毛沢東』と書いてあった。
私は毛沢東に興味があって手に取ったわけではなかった。

数年前に『ワイルドスワン』という本を書いたユン チアンに興味があったからである。
『ワイルドスワン』を読むきっかけになったのは、すごくくだらなかった。

作者が1951年、私と同じ年に生まれていたからである。
きっかけはくだらなかったが、すっかりユン チアンに魅了された。

以来、彼女のファンになり次に出版される本を待っていた。
タイミングよく入院中に本が出版された。

出会いは絶妙なタイミングで訪れる、というのは本当だ。
入院中でなかったら、この大部の本は読み通すことができなかったと思う。

膨大な資料を踏査し、多くの関係者に直接会ってインタビューし書き上げられたらしい。
らしい、と言わざるを得ないのは、書かれていることがにわかに信じられなかったからである。

今まで、教えられてきた毛沢東のイメージとはあまりにもかけ離れていた。
最初は、半信半疑、恐る恐るページをめくっていった。

毛沢東は中国共産主義体制を作り上げた英雄と思っていた。
教科書には、チャーチル、ルーズベルト、スターリンなどと一緒に載っていた。

高校の頃、毛沢東語録を持って読んでいるのがいた。
だから、毛沢東は清廉潔白で正義感の強い人と思っていた。

でも、ページをめくるにつれイメージは崩れていった。
毛沢東は確固としたイデオロギーを持たず、カリスマ性もなく、自己チューで、残虐であった。

毛沢東の一生は権力闘争に明け暮れた、と言っても過言ではない。
喰うか喰われるかの世界で戦ってきたのだから仕方がないといえば仕方がない。

その、精神力や生命力は凄まじいと思う。
しかし、その反面、単なる野心家で好色家にすぎなかったのだ。

彼の前ではヒトラーも色あせて見える。
彼は中国全土に渡って残虐の限りを尽くした。

その犠牲者の数は、何千万とも言われている。
特に、大躍進の失敗によって農民の犠牲が大きかったらしい。

『マオ』を読み終わった後、舞い降りる黄砂を見ながら私は思った。

この、黄砂の中には中国人民の血と汗と遺伝子が含まれているのだ、と。

勿論、3、4日前の黄砂にも、だ!
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# by cocoroshien | 2008-03-08 23:23

井戸端会議

昔は井戸があちこちにあった。
そこで、洗濯をしたり、洗い物をしながら近所の小母ちゃんたちが話しをしていた。

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今日ファミレスに行った。
席について周りを見渡したら、老若女女女だらけだった。

話し声を聞いていてフッと頭に浮かんだのは井戸端会議のことだった。
ここには、昔の井戸端会議が脈々と残っていると思った。

私の故郷は島だったので、大きな川がなかった。
だから、水の確保は池や井戸に頼るほかはなかった。

井戸はあちこちにあって、どれも井戸の特徴があった。
飲み水に良い井戸、洗い物に良い井戸、冷却に良い井戸。

皆は、それを使い分けしていた。
家の近くにあった井戸は洗い物に適していた。

衣類を洗濯したり、野菜を洗ったり、食器を洗ったり。
近所の小母ちゃんたちが集まってきて、ペチャクチャ喋りながら洗い物をしていた。

そこで、どんな話しが交わされたか、当時は考えもしなかった。
おそらく、子供の話、家族の話、仕事(農業)の話、噂話などだったと思う。

私たちは、周りで、かくれんぼ、鬼ごっこ、ケンケンパタ、ビー玉、ペチャ、などをして遊んだ。
夕方になると親と一緒に家路に着いた。

井戸端は母子にとって、憩いの場であり、癒しの場であり、遊びの場であった。
小母ちゃんたちは、仕事から解放されてお喋りをして、ストレス解消をしていたのかもしれない。

あれから40年殆どの井戸は枯れてしまった。
井戸端会議をする場はなくなってしまった。

でも、ファミレスという井戸から水が湧き出している。
長屋、井戸端、の延長にファミレスがあるのかもしれない。

次は、どんな井戸が出現することやら!
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# by cocoroshien | 2008-03-06 22:06

まっかけ

名前の由来は分からない。
小さいときからそう呼んでいた。

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ここはたまり場だった。
学校から帰ると、先ずここに行った。

きゃーどー(角)を左に曲がると坂道が見える。
昼間でも薄暗い山道を登っていく。

竹林が日光をさえぎっているのでひんやりと感じる。
竹林を過ぎると一本の樫木がある。

夏の朝、カブト虫がたむろしていた。
そこを過ぎるとなだらかな、丸みをおびた丘がある。

その丘を『まっかけ』と呼んでいた。
左側には松林があり、右側には墓様があた。

前方には海が見えた。
海の向こうに島があり、島と島の間に夕陽が沈んだ。

海岸線は石垣が積んであった。
満潮の時には、石垣からこぼれんばかりに潮が押し寄せた。

その潮の中に石垣の上から飛び込んだ。
あがって来て、石垣の上に座り、潮風を浴びた。

夕暮れ時、丸みをおびた海の中に夕陽が沈んでいく。
音を立てて沈んでいくのを何も考えずに眺めた。

その時に見た風景。
それを私は、原風景と呼んでいる。

宮沢賢治の詩に「くらかけの雪」というのがある。

「たよりになるのは くらかけ続きの雪ばかり 野はらもはやしも……」
このくだりを読んだとき、『まっかけ』を思い出した。

『まっかけ』から眺めた原風景を思い出した。
私にとって、たよりになるのは『まっかけ』だけだった。

東京にいたとき、パサパサに乾いた心の襞を潤してくれたのは『まっかけ』だった。
田舎に帰ってくるたびに、ひんやりとした坂道を登った。

でも今は、坂道は残っているが、『まかっけ」の面影は残っていない。

残っているのは、原風景だけだ、わ た し の こ こ ろ に !
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# by cocoroshien | 2008-03-05 22:58